「上筒井から」Vol.8(Dec. 2000)

震災復興委員会 活動報告

わいわいランチ(給食サービス) - 夜回り準備会


わいわいランチ(給食サービス)

 ひょんなことで『わいわいランチ』のお手伝いをするようになって、一年あまりが経ちました。この時間が私の生活になじんできたような気がしています。

 私事なのですが、この夏義父が99歳で逝きました。そのときのことが、今も私の中から離れません。

 彼は生まれつき身体強健な人でしたが、6、7年前に痴呆が始まり、坂道を転げ落ちるように症状が進み,一緒に暮している私達が驚くことの連続でした。初めて起こる一つ一つのことに葛藤があり,試行錯誤しながら対処していく毎日でした。ある日、縁側でおじいちゃんのつめを切っていると、「あんた、お子達何人あるの?」とたずねられました。お子達ってーって。二十数年も同じ家で暮している孫のことでしょう? そういえばあんたーって? 私は普通「おまえ」と呼ばれてきたのです。そのとき初めて私は彼の「嫁」でも「家族」でもなくなっていることに気付いてのでした。この義父も義母も明治生まれ田舎育ちで旧来の考えを持っていました。私は「嫁」以外のものではありませんでした。また義父は義母の家に「養子」に来たのでした。彼は「養子」に来てからずっと家族の中でくつろぐことができなかったのではないかと私は察しています。私達が同居するようになっても、義父は常にヨロイをつけたままのようでした。そういう義父に義母も夫の兄も近づこうとはしませんでした。彼は以前は私に「ありがとう」や「すまない」といわない人でしたが、そのうち下の世話をする度に「すんません」と言うようになっていました。介護がどんどん大変になって行き、私一人では面倒が見切れなくなってとうとう施設にお願いする事にしました。私は心身ともに疲れきっていました。施設に入って義父は結構環境に順応し、私達が訪ねていくと笑顔を見せたりしました。それから三年、義父は食べ物が喉を通らなくなって、入院。家の近くの病院に入れてもらったので、私は頻繁に会いに行くことができました。「おじいちゃん、来たよ−。」と言うと、調子が良いと「おう」と答えます。私のことはわかってないのですが、私にはそれで十分です。できるだけ外の空気に触れさせたいと、車椅子に乗せてもらって病院の最上階にあるベランダへ出ます。神戸の町と海が一望できます。車椅子を押しながら時々話しかけます。わかったりわからなかったり、ほとんどわかってないようだけど、いいのです。

 そんなある日、前後のことは忘れてしまったけれど、私が差しかけた日傘の中で(夏に入って日差しが暑かったので)、おじいちゃんはゆっくり、ピンクの花がほころび開くような微笑を見せたのでした。無邪気な幼い子どものような笑顔でした。私の胸がいっぱいになって嬉しくて涙ぐみたくなるような優しい顔でした。それから数週間しておじいちゃんは逝きました。後にこの顔が、私の中に残りました。おじいちゃんと同居し始めたころの居丈高な表情とは最も遠いこの表情が今私の宝物です。恐らく彼の妻も息子も誰もが知らない顔です。彼はぼけていくことでようやく彼を縛っていたよろいを脱ぎ捨て素肌になれたのだと思います。私も「嫁」でも「介護者」でもなく、同じ地平に立つものとして、そこにいられたのだと思います。

 山道を歩いていて、出会うと「やあ」と言い合う、そしてひょっとして転んだら手を差し出して助け合う、そういう人間関係が結べるようになりたいものです。

 「わいわいランチ」に参加して、私はお年寄りと、そういうふうに触れ合えればいいな、と思っています。

(彩)
  わいわいランチ


夜回り準備会(仮称)

炊き出しのお手伝いをして

 先日、炊き出しのお手伝いに参加した。土曜日の朝9時集合。朝寝坊の私にとっては起きれないかもしれないという不安を周囲に与えつつも、まずは時間どおり到着。早速準備にとりかかった。メニューは肉じゃがとご飯。300人分を用意した。300人分っていうとお米が30kg、ジャガイモ50kg等々普段お目にかからないような量である。結構すぐにできるものかと思っていたが、皮むきなど結構時間がかかった。そのうえ普段の運動不足がここにきて発覚。午前中立ち仕事をしただけで私はふらふら。まわりで働いている私の親の年代の人々は、結構平気そうっだったりするし・毎日パソコンに向かっている生活がいかに不健康なものかと思い知った。

 配食直前12時前無事すべての用意が整い、配食を始める。ご飯をよそおう役をした。後で足りなくなったら困るからということで最初は気をつけていれていたのが途中からどんどん気が大きくなって、ついいっぱい入れてしまったりしたが無事すべての人にお昼ご飯を食べてもらうことができた。当日は雨が降っていた為、若干集まった人が少なかったと言うことだが、それでも280人前後の人が食事のために雨の中、出てこられたのだった。

 炊き出しのお手伝い自体はその後の後片付けを経て無事終了したのだが、ひとつ、今でも非常に心に残ることがある。

 配食を終了し、ボランティアも食事をしていた時のこと。私の向でご飯を食べていた男性が、何かの広報誌を読んでいて「この数字間違ってるわ。」とつぶやいた。が、私には私に話しかけられていると思い、何も悪気はなかったのだが、つい「あ、本当ですか」と答えてしまった。すると、「本当かとは何だ。嘘言っているというのか」と言われてしまった。別にその人が嘘をついていると思ったわけでもなかったし、本当につい口を付いて出た言葉だったのだが、その人に不快な思いをさせてしまった。炊き出しとは直接関係がないのだけど、何気ない言葉が人を不快にさせてしまうと言うことを実感した出来事だった。今後は使わないようにしようと反省している。

 炊き出しのお手伝い、しかも毎回でなくて単発。行って、ご飯作ってそれで終わりって思っていたが、いろいろなことを考えさせられた。まずひとつは、炊き出しと言う活動は基本的には根本解決でないのだということ。しかし根本的解決ではないけれども、必要性がとてもあることである。雨が降っているにもかかわらず、これだけ多くの人々が集まっていると言う事実。今後私達がどのような活動をして行くべきなのだろうかということを考えさせられた。

 炊き出しの日が終わって2週間ほど後から、通勤で使用する駅の出口付近のベンチで寝ている人を見かけるようになった。今まではあまり気に止めていなかったのだが、とても気になり毎日確認するようになった。ある日その人がいなくなって、更生センターにでも行かれたのかなぁと思っていたら、また戻ってこられていた。この前は持っていなかったダンボールで今度は身体を囲むようにして寝ている。これからどんどん寒くなるのに、どうやって寒さをしのいで行くのだろうと思わずにいられない。そして根本解決を目指すには何をしなければならないのかを、そしてそれを実現させる為にはどうしたらいいのかを一刻も早く探さないといけないと思った。

(R. M.)
  夜回り準備会


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