「上筒井から」Vol.7(Sep. 2000)
<県外被災者の声〜東京支援会>
地震を振り返って
8月28日迄、心が病んでいました。潜伏していた病気が、地震で、発症したようです。商いの、書店が、うまくゆかず、総てが、限界に、きていました。この限界の、糸を切ったのが、あの地震でした。瞬間は、何が、起きたのか分かりませんでした。しかし、五年が、過ぎた今でも、あの時のことは、はっきりと覚えています。死ぬかも知れへん!死んでしまうと、思いました。死も覚悟を、したように、思います。体は、宙に浮くほど揺れているのに、心は、おだやかでした。自分では、しっかりしているつもりでしたが、一緒に、生活をしていた次男が、家内に「お父さんが、おかしい」と、言っているのが、聞えました。ぼんやりしている、私を、余所に、次男は、私達の、住むマンションの住民の、安否確認を、して廻っていました。それが終ると、仕事に出かけました。残された私は、家内の後に、付いて回っていました。この憐れな、状態は、八月の終りまで、続きました。唯一、元気になるのは、仕事探しで、面接に、行く時だけでした。震災から二週間ほど、過ぎた時、長男の居る名古屋で、住まいと、仕事を、確保しました。家内は、この仕事を、私に、させたくないらしく、仮契約と、させていただきました。その後、今迄住んでいた、マンションは、全壊しましたので、取り壊しのはなしで、灘区へ一時、帰ることになりました。全壊の我家は、水は出ませんが電気は、通じるようになりました。次男は、池田市へ、転居して、宝塚の会社に、通っていました。二人だけの、壊われた、マンションの、生活でしたが、水が大量に要るのには、閉口しました。そのような、状態でしたが、名古屋に、行く気には、なれませんでした。又仕事探しを、始めました。新聞の求人欄で、自分に、出来そうな仕事が、見付かると、相手の都合も、考えず、履歴書を持って家内と、その会社に乗り込みました。これが、効を奏し、早く仕事に就くことができました。面接した人も、リックサックを背負って、来られたのでは、断われなかったのでしょう。それは、阪急伊丹駅に、近いマンションの管理人でした。地震から40日が、経過していました。
神戸から伊丹までの、直ぐそこまでの、引越しでしたが、神戸の街も、自分も、泣いているようでした。これまでして探した、安住の地と、仕事でしたが、管理人室に、着いた途端、言い知れぬ、悲しみが、襲って来ました。伊丹も、地震で、被害が出ていました。引っ越したマンションも、連日、補修工事の会合が続きました。会合に出席しても、補修の話など、馬耳東風、何処吹く風でした。住民の方々は、えらい管理人が来てもうた!と、思われたと思います。仕事は、家内に、任せぱなしでした。ただ掃除だけは、丹念にしていました。実は、掃除の小母さんが、来ていましたので、掃除などする必要は、ありませんでしたが、それしか出来ませんでした。それでも、転居通知は、私が出しました。3月10日頃でした。折り返し、東京の友人から、私の大学に来ないかと、電話が入りました。その彼から、大学案内、勤務条件などが、送られてきましたが、なかなかこの話を、信じることが、出来ませんでした。4月23日は、長男の結婚式でした。長男、嫁、両親に、大学案内などを見せて、盛んに安心させていました。結婚式では、憚らず泣いてしまいました。家内も隣りで泣いていたそうですが、気付きませんでした。5月に、大学の見学に行きました。東京町田市の郊外にある、女子大学です一ホールだけの、大学のゴルフ場で、総務課長が、友人と私を、待っていてくれました。六月には、理事長との面接を終え、着々と、話が進んでいきました。7月になり、9月1日より、勤務して下さいとの、手紙も来ました。その頃、家内は、皆さんに重宝される管理人に、なっていました。私がよそよそしかったからでしょうか?住民の皆さんから、何時迄も、マンションに居て下さいと、言われるようになりました。ハイと、返事することが、辛かったです。8月になって、以前の住処の灘へ、行って見ました。書店のあった大石駅は、長い柱の、剥き出しの高架になっていました。マンションは、黄色のフェンスが囲んだ、更地になっていました。
私達家族を、27年間、育んだ街との別れです。8月27日に、大阪を発った、夜行列車を、東京の白む朝が、迎えてくれました。街が輝くことも、歌が弾むことも、この時知りました。
5年の歳月は、一緒に地震を、体験した次男も、結婚しました。長男、次男に、それぞれ、男の子が生まれ、私達は、おじいちゃん、おばあちゃん、になりました。今年は、還暦です。定年迄残りが5年です。それからは、家内は、富士山の四季を、眺めたいと言ってます。私は暖かい、沖縄での生活を夢みてます。それから神戸へ!
(千)
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