1995年1月17日、あの日のことはよく覚えている。急ぎの原稿の校正をしていて、草臥れたなと時計を見ると午前5時少し前。「今からだと1時間は眠れる」と、大急ぎで布団にもぐりこんだ眠りの最中。いきなりドーンと突き上げるような激しい衝動で、目を覚ましたがどうすることも出来ない。これ以上揺れたらこのマンションも潰れる!と、思った瞬間にようやく揺れはとまった・・・・我が家は幸いにして建物に被害はなかったが、それから修羅場の毎日が始まったのだった。
・・・・・時間の経過の中で、次第に研究計画も軌道修正せざるをえなくなった。私はそれまで日本福祉大学(愛知県)で生活構造論を担当しながら、名古屋市南部で生活問題の調査を続けていた。20年ちかい老親の介護と長距離通勤の狭間で、思うように仕事が進まず、多少いらいらしていた私は、せめて1年後に迫った定年退職までには、何とか講義を1冊の本にまとめたいと考えていた。しかし被災地の惨状と被災者の戸惑いを見るにつけ、「1市民として出来ることは・・・」、まして「生活問題研究者としてしなければならないことは・・・」という思いが膨らんでくるのをどうしようもなかった。
3月5日の各紙に発表された地域別に、住所と年齢を付した亡くなった方々の一覧は、その原点である。印象に残っているのは高齢の方々とあわせて、激震地域では働き盛りの方や一家全滅のケースが目についたことである。激震地の瓦礫の中を歩いてみた。そしてその地域担当の保健婦さんを訪ねて話をきいてみたりした。大震災にかかわりのある集まりには出来るだけ出かけて、いろいろな方の報告を聞いた。新聞の特集記事も手元で抜けているところは、図書館に出かけて丹念に読んだ。
でも住環境が被害の大きさを解明する鍵であることの見当はついても、調査仮説を立てるほどには全体が見えてこない。ましてや当面の課題が錯綜している生活の場に、先が見えないままに、何も具体的な援助のできないものが、聞き取り調査のために扉をたたく気持ちには到底なれない。それではじめたのが、聞き取り調査に応じてもらえる方を求めての、簡単なアンケート調査表を、西宮市内の仮設住宅、約5000戸に1軒ずつ入れて歩く作業であった。
大震災後、半年以上経過した夏の炎天下には、訪ねる人もほとんど見当たらない。ポトンとポストに紙の入る音を聞きつけて、中で人影が動く。一人のゼミ生が言った「先生、仮設の人は寂しいのやね・・・」。それからは物音がする時は、出来るだけ声をかけるようにした。今回ブックレットにまとめた調査の始まりである。
こうして容赦しながらの船出だったのだが、予想に反して1300余りの回答が戻ってきた。兵庫とは遠く離れた愛知県の福祉大学の教師とゼミ生による調査というのが、仮設住宅で、不安なままならぬ日々を過ごしておられた入居者の気持ちを引き寄せたのかもしれない。というのは、震災直後、西宮は、福祉大学の活動地域となっており、かなりの数の学生がボランティアとして、交代で西宮にきていたからである。ともあれ回答を頂いた中で、450世帯余の方々が、名前と電話番号を書いて、調査に応じてくださるという意思表示をして下さったのである。
急遽、調査体制の建て直しに迫られた。予備調査を経て、本格的なアンケート調査に入ったのは1年後の96年8月。そして丁寧な面接調査を終えたのは11月に入ってからであった。わが大学の学生や院生だけでなく、東京からも援軍がやってきた。多い時は総勢30人を上回る数になった。ただ一人の地元在住の私は、宿の世話から交通案内まで一手引き受けである。
助っ人に駆けつけてくれた多くは、主として社会福祉の研究者かその卵。発想の基本が経済学の私とは目的は同じでも、つめ方には微妙な違いが生じる。相互に異質のものが介在していることが判るだけに、身体はくるくると忙しく立ち回らなければならないものの、調査のゴールをみつめて、自問自答することも少なくなかった。
でも結果として、異なる分野の若い研究者とともに調査をしたことで、多くのことを学んだ。それにこの多数の援軍なしには、それこそゴールに到達出来たかどうかあやしい限りである。時間のながれとともに若い研究者は、それぞれ新しい勤務地へと巣立っていった。それから4年ちかくは、ほとんど一人作業となった。しかし有難いことに、日本建築学会・建築経済委員会・住宅の地方性小委員会が、大震災後3年半、4年半、5年半と、節目ごとの研究資料づくりの仲間に入れてくださった。この頃になると、私の被災者生活調査の調査仮説もかなり整理されてきた。1998年9月に日本住宅会議の海外視察でサンフランシスコを訪れて、1989年10月の大地震の現場をたずねたり、市の地震対策担当者やNPOの関係者に話を聞く機会を得たことも大きなはずみとなった。
調査協力者は仮設住宅からの転出とともに、音信が絶え方も少なくない。亡くなった方もおられる。しかし転出先を連絡してくださる方も多く、生活のその後の経過をたどる中で、被災者の生活像が次第に浮かび上がってきた。その中で気にかかったのは、災害復興公営住宅にお邪魔をして、家賃補助についてのお話などを伺った際に、比較的多くの方が、「いつまでも被災者であることに、甘んじていてはいけないのですが・・・」と前置きをして、制度を打ち切られることへの不安を切々と話なされたことであった。巷では「いつまでも被災者、被災者って通るものぢゃない・・・」という声も聞こえなくはない。まわりの目が被災者の心に蓋をしようとしているのである。
それに住宅の再建がすすみ、まちなみが一定整うとともに、「2世帯住宅を息子が多額の借金をして建ててくれたので、もとの場所に戻ってきました。でも私たちは震災以来病気がちです。毎月の借金返済のことを考えると、夜、眠れなくなります」という自宅を再建した被災者の苦悩も次第に隅のほうに追いやられようとしている。
社会科学の研究者の悩みの一つは、直ぐには答えの出ない課題と常に向き合って仕事をしていることであると思う。生活再建の急を要する自然災害による被災者がかかえる生活困難を目前にしている時はなおのことである。その点で2000年10月の鳥取県西部地震での住宅再建にへの片山善博鳥取県知事の敏速な対応、同じく2000年12月に「住宅の社会的公共性」を明記した国土庁(現国土交通省)報告書が出たこと、また昨年8月の国連人権・社会権規約委員会の阪神・淡路大震災被災者の状態について、有効な措置を求めた日本政府への勧告は、行きつ戻りつしていた私のブックレットのまとめ作業を、大きく後押ししてくれたのであった。かくして悩める7年は、より多くの人や出来事との出会いの7年でもあり、ブックレット『被災者のこころをきく』も、ようやく誕生までに漕ぎつけることが出来た次第である。
*ブックレット『被災者のこころをきく〜西宮の被災者生活調査から』 ¥1143+税(せせらぎ出版;06-6375-6916)